流行にはいつも乗り遅れる営業より本日アップします。
先日、久しぶりにロフトに寄ったところ、なにかただならぬ雰囲気が店内に漂っていました。とくに商品を眺めるのではなく、まるで万引きの犯行現場を押さえようとしているかのように、何かをじっと見つめている大人の女性たち数人。彼女たちの視線の先には、品出しする店員さんの姿。お分かりだろうか? もしこの店員さんがおもむろに透明で厚みのあるキラキラしたシールを棚に並べようものなら、電光石火の如く、何本もの腕が伸びて取り合いになるのです。そう、今話題のボンボンドロップシールです。彼女たちは、入荷時期を狙って店舗を経巡るシールハンターなのです。
わが家の令和女児も、少し前までポケモンに熱中していたことなど完全に忘れて、シール収集に励んでいます。
娘のシールファイルを開いた瞬間、私は思わず声を失いました。「……平成だ」
しかも薄味の平成ではない。ラメと透明と過剰さが最高潮だった、全盛期の平成だ。

左ページがボンボンドロップシール
ボンボンドロップシール。ぷっくり、つやつや、やたら厚い。貼ればノートは閉じないし、剥がれるし、最終的に邪魔。それでも、誰も貼らない。いや、貼らないからこそ価値がある。

欲しくても手に入らないボンボンドロップシール。カートには入れることができても、クレジットカードの情報を入力している間に売り切れてしまう。職場の近くの文房具店には「シールの入荷時期については質問しないでください」という掲示が貼られている。しかし娘のシール帳にはボンボンドロップシールが神々しく貼られている。実は一昨年、ブームになる前にたまたま購入していたのだ。

ファイルの中には、マイメロが何人もいて、シナモンはいつ見ても完成されていて、「これは誰?」と聞きたくなるキャラも当然のように混ざっている。色数は多く、統一感はない。でもそこには、はっきりした思想がある。
「かわいいは盛るもの!」
「かわいいに意味はいらない!」
「引き算は大人になってから!」
平成女児文化は、「余白」より「詰め込み」を選んだ文化だった。
娘は言いました。「これはね、使わないの」
知っている。それは、私の中にもある感覚だ。
なぜなら私は、昭和の切手コレクターだったから。
切手も、使える。でも使わない。むしろ使ったら終わり。
グラシン紙とピンセットそしてストックブック。
「未使用・ヒンジなし」に異様な執着。
ストックブックをめくるときの、あの静かな満足感。
娘のシールファイルをめくる感覚は、それと驚くほど似ていた。
違うのは見た目だけだ。
切手は地味で、シールはうるさい。でも本質は同じ。所有して、並べて、眺めるための文化。そして時々交換。

あえて言わせてもらうと、切手はもっと慎重に扱ったものだ。年代やテーマごとに並べ方を工夫して時間をかけて見せかたを工夫した。いっぽう令和女児に迷いはない。シートからがんがんはがして、シール帳にどんどん貼っていく。曲がっていてもお構いなし。つめでシールをわざと弾いたりして。かたいシールだからパラパラ音がするのだ。「エーエスエムアールだよ」だそうだ。
最近の平成女児ブームも、理由はわかりやすい。あの頃の女児が、クレカを持つようなったからだ。当時買えなかったものを、今なら買える。経済はいつだって、満たされなかった小さな欲望に動かされる。
娘は平成を知らない。それでも「かわいい」と即断する。価値観は、説明されなくても受け継がれるらしい。
娘のシールは、たぶん貼られない。私の切手も、きっと使われない。
それでいいのだと思う。役には立たない。でも、捨てられない。
ファイルを閉じながら、私はふと、昭和の切手仲間たちの顔を思い出した。みんな、「何になるんだろうな、これ」と言いながら、それでも集めていた。意味はなくても、集めている時間は、確かに楽しかった。
娘のファイルの中で、平成は今もぷっくりと生きている。そしてその隣に、昭和の切手を集めていた男の時間も、静かに並んでいる気がした。
文化は役に立たなくてもいい。誰かの引き出しの中で、大事にされていれば、それで十分なのだ。











